日本に生まれて良かった。
日本人が忘れてはならないこと。
こんばんは。
夜中の運転により、半日ほど寝ておりました、野村大成です。
本日は寝ていた時間が多かったですが、
原爆ドームを観に行きました。
広島平和記念資料館は今日は見送りました。
思っていた何倍もの人が並んでおり、観光バスが何台も止まってそこに乗っていた人がみんな並んでいるのかなと。
明日、資料館へ行くので、今日は戦争について聞いた話のことです。
会社の方で、戦後の6年後に生まれた方が居ます。
飲み会に行くたびに僕は話を聞かせて頂きます。
その方は名古屋なので、原爆とは関係ありませんが
名古屋大空襲があり、それはそれで凄まじかったみたいです。
名古屋には、日本の航空発動機生産高の約4割を占めていた三菱重工の工場がありました。
重要な工場あったために狙われたみたいですね。
それも、一度ではなく7度にわたり執拗に狙われたことで、周辺の民家への被害も被り多くの民間人の方が巻き添えになりました。
ナゴヤドームの近くで、うちからはすぐ近くにあった工場でした。
この出来事が1944年の1年前です。
終戦の1945年にはさらに激化しました。
当時、B-29の搭乗員には一部、戦時国際法違反(非戦闘員に対する無差別爆撃)によって戦争犯罪による死刑が執行されたほどだそうです。
合計63回の空襲により、2,500機以上の戦闘機が名古屋に来襲しました。
落とされた爆弾は14,000トン以上。
7,800名以上の死者、10,000名以上の負傷者の被害を被りました。
数字は調べましたが、聞いた話は今ではとても考えられないものばかり。
兄弟も多く、高校まで行けるのはとても稀な環境で、働きに出ていたと聞きます。
当たり前ですが、働くといっても体を動かすものばかりです。
今でも働いてもらっているのは、当時の鍛えられた体があるからでしょう。。
両親も生まれていない年代ですが、3月の名古屋は一面焼け野原でした。
その51年後に僕は生まれました。
なんの不自由もなく、なんの恐れもなく。
生まれた後も23年間恵まれた環境で、育ちました。
当時の同じ川には、火傷による熱さから多くの人が入っていきました。
そこの堤防に降り立つと、日本人としての「和」の心を忘れてはならないと強く思いました。